篆刻を用いたロゴデザイン
6月 9, 2009

最近の仕事でデザインしたある会社のためのロゴマーク。
6月 1, 2009 
前々回のエントリーで紹介した岡崎さんの言葉にもあるとおり、居間の視点と風呂場の視点は違う。あるいは、外部と内部を同時に眺めることもできない。
にもかからわらず、建築家は、図面や模型といったメディアを用いて、一挙に全体を把握できるような視点を設定して、そこから建築の全体性を捏造してしまう。
そこで、現在、設計している住宅では、そのような捏造された建築の全体性によらず、愚直に実体の建築物に向けられる無数の視線を一つ一つ把握しながら、同居させたいと考えている。
上は、その住宅の断面の概念図。
Read the rest of this entry »
5月 26, 2009 ポストモダニストは、歴史のいっさいの理念を物語だといって否定した。つまり、理念は仮象だというわけです。しかし、それは別に新しい考えではない。そもそもカントは、理念は仮象だといっています。ただ、それは、感覚に由来するような仮象とはちがう。。それなら、理性によって訂正できる。ところが、理性から生じる、理性に固有の仮象がある。たとえば、昨日の自分と今日の自分は同じ自分だと人は思う。しかし、ヒュームがいったように、同一の「自己」など仮象に過ぎない。ところが、もしそのような幻想を持てないとどうなるか。統合失調症になるでしょう。だから、この種の仮象は不可欠であり、また不可避である。カントはこのような仮象をとくに「超越論的仮象」と呼びました。理念も超越論的仮象です。共産主義という理念も同じです。
超越論的仮象(統整的理念)がなくなればどうなるか。いわば、歴史的に統合失調症になる。先進国のインテリは、理念を物語(仮象)だといってシニカルに笑っているが、それではすまない。すぐに別の理念(仮象)をでっちあげることになる。フランシス・フクヤマみたいに、歴史はアメリカの勝利によって、自由民主主義が実現されて終わったというような、乱暴なヘーゲル主義的な観念論が出てくる。他方で、露骨に宗教的な原理主義が出てくる。理念を必要とする時代は全然終わっていないのです。理念は終わったと冷笑するインテリは、やがて冷笑されるか、忘却される。
(柄谷行人著『柄谷行人政治を語る』p69-70)
5月 20, 2009 建築とは生活である。生活と一言に書いたが、それを構成しているのは多層化された質である。そこに住んでいるのは人間だけではない、犬も猫も、何種類もの植物、生物が棲んでいる。そして人間となると、同じ一人で複数の異なった生物のように、そのつど、姿形、行動を変える。今西生態学にすみわけという概念があるが、異なる生物はそれぞれ異なる質の領域を必要とし、それらはお互いに決して交じり合わないことを要求する。自然は無数で雑多だが、それぞれは頑ななまでに潔癖で完結した世界(人がプライバシーを要求するように)要求するのである。
たぶん建築を設計するということは、この無数の世界のそれぞれの自律性を保ちつつ、いかに多元的に重ねあわすことが出来るか、ということに尽きるだろう。その多元性が建築が含む無数の質(たとえば壁や床のザラつきも)を決定する。こうして出来上がった建築を記述する唯一の視点は存在し得ない。居間での視点、風呂での視点が違うのはもちろんだが、そこには犬の視点、花の視点(etc)など無数の視点、無数の世界がそれぞれの自律性が保たれたまま含まれていなければならない。
(岡崎乾二郎「建築の質、自然の質」『住宅特集2005/01』p103)
今、住宅を設計しながら、頭の中にあるのは、岡崎乾二郎さんの上記の言葉だ。
多くの建築家は、構造の整合性、立方体、美しい幾何学で構成される平面図、などというように、建築に向ける視線を、設計図や模型をつくる職業的な視線に限定してしまっている。
仕上げで覆ってしまえば、整合性のある美しい構造も見ることは出来ない。また、人の身長からは建物の全体を一挙に把握することも難しい。
にもかかわらず、美しい構造体や、立方体のボリューム、美しい幾何学で構成される平面図のパターンにこだわるのは、建築家が設計図や模型を介して建築を眺めているからである。
そして、その職業的な視線から、他の視線をすべて捨象して、建築としてまとめてしまっている。
Read the rest of this entry »
5月 13, 2009 上記リンク先のサイトでは、リンク先を紹介するという方法で、ネット上の建築やデザインに関する情報をリアルタイムで紹介してくれている。
たとえば、建築家自身が運営するHPで、最新作や工事中の写真がアップされたことなど、購読者や情報をアップした建築家自身からの情報提供がない限り、発見することが難しいような情報まで出てくる。
僕も、すこし前にこのサイトを発見して、購読しているのですが、かなり重宝している。
これさえ観ておけば、建築デザインの流行は、大抵抑えておくことは出来るのではないだろうか。
ネット上には、膨大な量の有益な情報が公開されているはずだが、広大な大海原のなかでは、有益な情報を必要なときにみつけることが難しいものである。
その対策として開発された技術である検索エンジンは、確かに便利ではあるが、やはりキーワードだけで発見できる情報には、限界がある。
しかし、こうやって、ネット上の情報をうまく集めさえすれば、雑誌程度のコンテンツを十分に提供することができるわけである。
ただし、このサイトがかなりの頻度で更新されているのをみると、運営にはかなりの労力が必要なのかもしれない。
5月 12, 2009 愛玩用家畜として同じく一般的なイヌ(Canis lupus familiaris)に比して、ネコは飼育開始の時期が遅いが、これは家畜化の経緯の相違による。イヌは狩猟採集民に必要とされたため、早い時期から人の社会に組み込まれ、狩りの伴侶、外敵への備え、幼子の保護者となった。しかしネコは、農耕の開始に伴い鼠害が深刻にならない限り有用性が無く、むしろ狩猟者にとっては競合者ですらあった。その競合的捕食動物が人のパートナーとなり得たのは、穀物という「一定期間の保管を要する食害を受けやすい財産」を人類が保有するようになり、財産の番人としてのネコの役割が登場した事による。
農耕が開始され集落が出現した時期、中近東周辺で、山野でネズミやノウサギを追っていたネコがネズミが数多く集まる穀物の貯蔵場所に現れ、中には棲みつくものもいたのが始まりと考えられている(リビアヤマネコの生息地と農耕文化圏が重なった地域で、複数回起こっていたと考えられる。時期は特定されていない。 穀物には手を出さず、それを食害する害獣のみを捕食する事から、双方の利益が一致。穀物を守るネコは益獣として大切にされるようになり、やがて餌付けから家畜化に繋がった。
(ウィキペディア「ねこ」より)
今では、どこでも見かける猫ですが、人間がねこを飼うようになるきっかけが、「財産の番人」だったとは知らなかった。
豚や牛は人間の食料になったけど、猫は「財産の番人」という役割で、人間に食べられる側ではなく、人間から食べ物を与えられるペットになったわけだ。
身近な動物である猫にも、歴史が刻み込まれていることに気づかされた。
なかなか面白い話だと思った。
5月 9, 2009 Crossing: Dialogues for Emergency Architecture
元同僚で友人の建築家・松原弘典さんより、案内いただいたので、紹介しておきます。
上記リンク先の公式サイトにあるとおり、中国北京の国立の美術館「中国美術館」で「渡-国際応急建築設計展(Crossing: Dialogues for Emergency Architecture)」が開催されるそうです。
世界中から17組の建築家グループが招聘され、彼らが世界各地で災害後に建てられた応急建築について紹介するもので、展示会場には原寸大の応急建築の模型も展示されるとのこと。
松原さんも、慶應義塾大学の松原弘典研究室と坂茂研究室の共同の名前で華林小学の仮設紙管校舎と家具の展示を行うそうです。
Read the rest of this entry »
5月 5, 2009 おもしろい建物の写真を見つけました。

google mapには黒海沿岸、オデッサの北東にポイントされている。
飼料か肥料を蓄えておいて、使いたいときに、蛇口のように投下口をあけて、下に降ろしすための施設だろうか。
かなり大胆なキャンチレバーで宙に浮いているようにみえる。
しかし、その大胆な構造にたいして、素朴は屋根が、アンバランス。
それがまた面白い。
5月 1, 2009 Pace Continuaのウェブストアを作って見ました。
ウェブショップ用のオープンソース「Zen Cart」を使っています。
Zencart.com
Zencart.jp
ちなみに、このアプリケーション名にある「Zen」とは、日本語の「禅」をさしているそうです。
デザインは、マニュアル本を見ながらカスタマイズしています。
マニュアル本:
「Zen Cartによるオンラインショップ構築・運用テクニック」
肝心の商品がまだないのですが、これから増やして行きたいと思います!!
4月 24, 2009 この人も、原広司とおんなじことを言っている。
もし今、まさにルネサンスが巡り着ているとすれば、こんなにラッキーなことはない。
新しい時代がどのように訪れるのか、体験できるかもしれない。
場合によっては、何らかの形で関わるチャンスだってある。
今はね、100年に一度どころか500年に一度の転換期。
どこへ向かえばいいのかというビジョンを、自覚することがとても大事な時代だと思います。
その中で音楽は社会にとっての薬であり、鏡でもあり、予言でもあります。
(坂本龍一/Tower Recordsの広告より)
4月 23, 2009 原広司「現代に巡りきたルネサンス」(『CASBELLA JAPAN』774)
最近、建築雑誌で掲載されている話題には、ほとんど興味を持てなくなっていたのだが、面白い記事があったので、紹介しておきます。
自分とかなり近い問題意識を語ってくれていました。
やはり、学生時代と自分の中で興味をもてる建築家はあまり変わっていないな、と実感。
たとえば、以下のような話。
ルネサンスという変革期にならって言えば、現代を説明するには、どういう登場人物やドラマツルギーが考えられるかという問題があるのではないかと思います。20世紀では、民族的な運動や独立革命などは、かなり成功していますよね。それに対して、社会主義の運動はことごとく失敗している。これは社会主義特有のドラマツルギーというか、登場人物の出し方が悪かったんじゃないかと思う。筋の書き方ですね。そこには、先ほど話した同立てがひとつにある。建築家ということも会って、僕は道具論に固執するのですが、道具を持たない革命なんてありえないと思っています。みんなが決議して革命をやろうとしても、道具なしに出来るはずがない。最初から無理じゃないかと僕は思っています。革命思想や進歩思想にはむかうつもりは全然ないし、逆に賛同するところも多いのだけれども、あまりにも無茶苦茶な事をやろうとしたような気がする。つまり、資本主義の中で育ってきた道具は社会主義でも使えるだろうという発想は全然駄目だと思うんですよ。社会主義体制なら、その体制の中で育った固有の道具を使わないことには、うまくいくはずがないと、僕はずっと思っていたわけです。
4月 13, 2009 こちらのサイトで進めようとしている農園計画では、未来のコミュニティのあり方についても考えたいと思っている。
通常、住宅とは、まず核家族という単位があり、その単位を前提として、リビング、ダイニング、寝室、浴室、という部屋を組み合わせることによって作られている。
一般的に、建築家が行う住宅設計は、それらの配列を検討し、形を与えることでしかない。
しかし、核家族というコミュニティの単位も、歴史的なものである。
時代が変われば、別のコミュニティが生活の単位として生まれてくることになる。
実際、非婚化あるいは離婚率の増加という現象に見られるとおり、多くの人にとって、核家族というコミュニティが、うまく機能しなくなっている。
近い将来、核家族という単位に代わる新しいコミュティのあり方が市民権を得て、それに対応した住処も求められるようになるはずである。
農園計画でも、そんな社会の動きを先取りした提案が必要だろう。
そんなことを考えていたら、つい先日、遺伝子の分析から人類学の研究をされている太田博樹先生にお会いする機会があり、立話ながら非常に興味深いお話を伺う事が出来た。
太田博樹研究室
4月 8, 2009 Take Action Foundation
「TAKE ACTION in 甲府」
以前、このブログでも書いた中田英寿が企画・運営するTAKE ACTION Foundationが、「TAKE ACTION F.C.」というチームを作って、今週の日曜日、J2のヴァンフォーレ甲府と試合を行うようだ。
メンバーは、”プロサッカー”を引退した名選手たち。
この試合は、単発のエキシビジョンマッチではなく、[Life after football]という企画に基づくもので、HPには、この試合で得た収益の利用方法が示されている。
”プロサッカー”や”ナショナルチーム”といった商業や国家を基礎とした既存の仕組みとは異なる、サッカーのための新しいインフラストラクチャーを作ろうとする試みである。
今後の展開にも、注目したい。
3月 28, 2009 最近、デベロッパーの仕事をさせてもらっている。
これまでは個人の建築主や住宅メーカーの商品開発をやってきたので、不動産の仕事は初めての経験なのだが、これがかなり勉強になっている。
これまで、町になんでこんなつまらない建物が多いか、ほとんど理解できていなかったかもしれない。
それらを設計した者の能力がないか、金儲けのために手を抜いている、位にしか考えていなかった。
しかし、いざ自分が不動産の仕事に関わって見て、その理由がやっと理解できるようになってきた。
設計者個人の能力ややる気、気持ちの問題ではなく、構造的な仕組みがそんな建物を作り出している。
Read the rest of this entry »
3月 27, 2009 
Atlantic Yards project in Brooklyn is dead, says its architect Frank Gehry
フランク・ゲーリーのアメリカでのプロジェクトが中止になったそうだ。
記事には、以下のように書かれているので、正確には、ゲーリーをはずしてプロジェクトを進める、ということなのだが。
Mayor Bloomberg this week suggested the project may still get built - but on a smaller scale and without Gehry.
3月 19, 2009 Yahoo blogにこのサイトのミラーを作って見た。
これまで、オリジナルのドメインを採って、ブログを書いてきたが、なかなかアクセス数が伸びない。
そこで、大手の会社が運営するレンタルブログを使って見ることにした。
オリジナルのドメインは、デザインや運営の自由度がある。しかし、誰かがこのサイトにリンクを張ってくれない限りは、外部の人からアクセスされる見込みがない。たまに、検索エンジンにキーワードが引っかかって訪問してくれる人もいるようだが、インターネットの大海原の中において、孤島のような存在である。いまの状況は、インターネットというより、アウトオブネットといったほうがふさわしい。いくら記事を書いてみたところで、情報が広がっていく可能性がない。
一方、大手のレンタルブログは、ブログを多くの人にみてもらえるような工夫が多くなされていて、ブログを運営やすくなっている。
たとえば、自分の書いた記事が、その会社のレンタルブログで書かれた新着記事をカテゴリーごとにまとめて掲載してくれる。そのため、記事を更新すればするほどアクセスの機会が増える。
特にヤフーブログは、利用者が多いらしい。
ということで、すこし外部との通路を確保するために、同じ記事をヤフーブログにも貼り付けてみることにした。
多少でもアクセス数が増えてくれるといいのだか。。。。。
3月 9, 2009 
上記のとおり、四谷アートステュディウムでは「建築農業工作ゼミ」という通年で行われる講義の受講生を募集しているようですので、紹介しておきます。
このサイトを共同運営している美術家Y.Kも講師として授業を担当します。
3月 7, 2009 これまで、いくつかのエントリーで、将来予測される人口構成や耕地面積、ごみの処理能力について書いた。
なんの前置きもなかったため、唐突な印象を与えることになったかもしれないが、実はこれらはPACE CONTINUAで進めようとしている計画のためのメモとして書かれている。
まだはっきりとした着地点があるわけではないが、ある限定した広さの土地の中で、可能な限り既存の資本主義経済の生産・流通システムとは切り離された生活を提案する計画になりそうである。
今後も、作業の進行の状況や計画のためのメモを、このサイトで紹介していきたいと考えている。
2月 19, 2009 先日、今年度非常勤講師を務めてきた学校の学生の課題の講評会に行ってきた。
そのことについて、感想をすこし書いておきたい。
建築を勉強し始めて一年目の学生たちが相手なので、それらの作品のレベルをどうこういうつもりはない。
しかし、多くの学生が、いまだに「主体」信じて作品を作ろうとしていることには、違和感を感じた。
Read the rest of this entry »
2月 18, 2009 生活の基本を「衣食住」というように、人間が生きていくために食べ物を欠くことはできない。
そして、食によって摂取しなくてはならない栄養素を大きく分けると、以下の5つになるらしい。
よく、お金を稼ぐために働くことを「食うために働く。」などと表現するが、これらの栄養素を入手さえできれば、お金がなくても生きられる。逆にお金を持っていても、これらの栄養素を入手できなければ生きられない。
お金を出せば、食べたいだけの食料が手に入る流通の仕組みが、今のところうまく機能しているために、この 当たり前のことが、意外と忘れられている。。。。。
しかし、近い将来、人口の増加に対して、食料の供給が追いつかなくなるという予想が立てられている。
お金を出せば、食べたいだけの食料が手に入るという仕組みが永遠に機能しつづける保証はどこにもない。
Read the rest of this entry »
2月 18, 2009 現在、日本では、一年間に約4億5000万tの廃棄物(一般廃棄物と産業廃棄物の合計)が排出されています。そのうち約6000万tの廃棄物がそれ以上処理が出来ない廃棄物として最終処分場に埋めたれられています。このまま廃棄物の排出量が増え続ければ、最終処分場がいっぱいになってしまいます。たとえ当面の間、最終処分場を確保することが出来たとしても、いつか必ずこれ以上は廃棄物を埋め立てれられないという状況が必ずやってきます。
(『ごみ問題100の知識』p40(左巻健男・金谷健編著 東京書籍2004年)
2月 15, 2009 Before- & Afterimages:出版不況
出版状況クロニクル
田中純氏のブログに出版不況について書かれている。
出版社に勤める知人から、出版社の経営が下降気味である、と聞いたことがあったが、こういう形で、再び同じ話題を聞くと、いよいよこの話題に注目が集まり始めているのかな、という気がしてくる。
以前、建築と建築雑誌との関係について書いたが、芸術としての「建築」にとって、建築雑誌はとても重要な役割がある。
建築物は地面に固定されるため、実物の建築を情報として流通させることはできない。芸術としての「建築」が情報として流通し多くの人々に伝達されるためには、書籍や雑誌などのメディアを経由する必要がある。
それゆえに、芸術としての「建築」は、実物の建築よりも、むしろ書籍や雑誌のメディアの性質に大きく規定されることになる。
Read the rest of this entry »
2月 13, 2009 レム・コールハースが設計した中国国営テレビ付属ビルが全焼したようだ。
コールハースの建築が、火災によって、まさにコールハースのコンセプトである「ジャンクスペース」そのものになってしまった。火災によってどの程度建築物が損傷を受けているのか。その程度によって、この「ジャンク」の再利用の範囲も決まるのだろう。
この建物は、模型写真やCGでは見たことはあったのだが、ここまで工事が進んでいたことはこの火災のニュースで始めて知った。
しかし、足場も外れて、いよいよ完成という時に、このような大規模な火災に見舞われるとは、運が悪いとしかいいようがない。
写真は、「ケンプラッツ」より転載。

Read the rest of this entry »
2月 1, 2009 自然はつねに同一であるというポピュラーな信念-これまで環境決定論という静態的な理論ならびにその同様に静態的な否定論を生み出してきた信念-とは反対に、人間が時には単純な、時には複雑な歴史的原因に対応して、その技術的用具・社会組織・世界観を根本的に変化されるときにはいつでも、自然も根本的に変化しているのである。人間は決してその自然環境に作用することをやめない。人間は普段に自然を変形し、彼の努力が彼に新しい水準の活動をもたらすときにはいつでも、人間は新しい[生産]力を現実化しているのである。新しい水準の活動に到達しうるかどうか、到達したとしても、それがどこに導くかは、第一には、制度的秩序、第二には、人間活動の究極の対象-人間活動が獲得しうる物理的、科学的、生物的世界-に依存する。制度的条件が同一であるならば、自然的背景の相違が新しい形態の技術・生活・社会管理の発展を可能にしたりするのである。
(『オリエンタル・デスポティズム』カール・A・ウィットフォーゲル著・湯浅赳男訳・新評論)
1月 22, 2009 鈴木博之さんが今年度で東京大学の教授を退官される。
また、芸大では、六角鬼丈さんも。
鈴木博之さんは、1945年生まれの建築史家。六角鬼丈さんは、1941年年生まれの建築家である。同じく1941年生まれの安藤忠雄は、すでに2003年に東大の教授を退官されている。
また、石山(修武)さんは1944年生まれ、藤森照信は1946年生まれだから、あと数年後には退官になる。
Read the rest of this entry »
1月 18, 2009 1/15に東京大学で行われた「鈴木博之教授退官記念連続講義」の第八回目にあたる、石山修武のレクチャーに行ってきた。
この連続レクチャー、昨年の春から行われ、今回が最終回の第八回目。
建築史家の鈴木博之氏と石山氏が、若い頃高山建築学校で出会って以来、盟友関係であるわけですが、普段は批評される側の立場にある建築家の石山さんが、批評する側にいる建築史家・鈴木博之をどう分析するのか、この二人がそれぞれ具体的な活動のなかでどういう影響関係があったのか、といった点で、とても興味深いレクチャーになると期待したのです。